苦情は、
利回りの表に載らない
新宿区の届出住宅に寄せられた苦情の件数は、令和3年度から順に70、60、299、561、924件です。区が公表している表を、そのまま並べただけの数字です。

令和5年度に五倍になり、そこから二年で三倍になりました。苦情の主な内容として区が挙げているのは、ごみ、騒音、たばこ、標識の未設置、事前説明。同じ表には、無許可営業のほうの苦情も並んでいて、こちらは12、36、144、231、410件です。足すと令和7年度で1,334件になります。
貸す側にいれば分かりますが、苦情の電話は利回りの計算に出てきません。表面利回りにも、実質利回りにも、その列はない。だから多くの人はそれを費用として数えないまま買います。そして五年経つと、数えなかったものが条例という形で戻ってくる。新宿区でいま起きているのは、そういうことだと私は読んでいます。
まだ決まっていません
先に、日付をはっきりさせておきます。条例はまだ成立していません。
2026年9月8日の定例記者会見で、新宿区の吉住健一区長が方針を示した、という段階です。住居専用地域と、学校などがある文教地区での民泊営業を原則禁止にする。商業地域でも、営業日数の上限を年間180日から120日に減らす。区は10月に意見公募を行い、2027年2月の区議会定例会に条例改正案を提出して、同年6月の施行を目指すとしています。
影響の規模については、およそ2,000件が営業できなくなる可能性があると区が説明した、とテレビ各局が報じています。区内の民泊営業の登録は3,928件(2026年8月末時点)で、全国で最も多い。届出住宅の年度末施設数のほうも、令和3年度の1,366件から令和7年度の3,749件へと、四年で二倍以上になっています。
つまり、いま日本でいちばん民泊が多い区が、その半分あまりを止める方向へ舵を切ろうとしている。まだ舵を切っただけで、まだ曲がってはいません。ここから意見公募があり、議会があります。
区長の言葉
会見での区長の言い方が、この件の性格をよく表しています。
「業界自体が自ら招いた事態」。
もうひとつ。「区役所、保健所の人員で対処できる数字ではない」。そして「違反施設は処分したが、後を絶たない。対象物件を減らすことで目が届きやすくなる」。
行政が「取り締まりでは追いつかないので母数を減らします」と言っている。これは規制の言葉としてはかなり率直なほうです。同じ会見で区長は、民泊の現状について「元々の法律制定の趣旨と異なった状況に陥っている」とも述べています。住宅宿泊事業法が想定していたのは、使われていない住宅の活用と国際交流でした。実際に育ったのは、賃貸より稼げる運用の形でした。
新宿区は、日本でいちばん「雑多」に耐えてきた区のひとつです。歌舞伎町があり、大久保があり、深夜に人が歩いている。その区で、住民の側から千件を超える声が積み上がった。静かな住宅街の話ではないのです。もともと騒がしい場所を受け入れてきた人たちが、これは違う、と言った。私が今回いちばん重く見ているのは、そこです。
国が「書いてよい」と言った
区がこの方針を出せた背景には、二か月前の通知があります。
2026年7月15日、観光庁などが地方公共団体に宛てて「住宅宿泊事業法に規定する届出住宅に係るゼロ日規制について(技術的助言)」を通知しました。届出住宅に対するゼロ日規制と、ICTを用いた管理の義務付けについて、地方自治法に基づく技術的助言を行ったものです。
ここは誤解されやすいところです。これは国が住宅地の民泊を全国一律に禁止したものではありません。自治体が条例でそこまで書ける、という助言です。決めるのは自治体で、その自治体を動かすのは住民です。
順番を間違えないようにしたいところです。苦情は先に積み上がっていました。1,334件は令和7年度、つまり2025年度の数字で、通知はそのあとに来ています。住民の側が数字を作り、国が「条例で書いてよい」と示し、区が書き始めた。この三つの順番が、今回の要点だと私は考えています。
同じ形が、分譲マンションでも起きています
ここからは民泊の話ではありません。ただ、形がよく似ています。
2025年7月18日、千代田区が不動産協会に対して要請を出しました。一定期間の転売禁止と、購入戸数の制限。区が業界団体に、私的財産の処分の仕方を変えてくれと申し入れたわけです。
そして同年11月25日、不動産協会が「分譲マンションの投機的短期転売問題にかかる取組みについて」を公表しました。柱は三つです。1物件あたりの購入戸数と、1回の販売期に登録できる住戸数の上限を制限する。登録した名義で契約・引渡し・登記まで行うことを徹底する。売買契約から引渡しまでの期間、売却活動を禁止する。
法律ではありません。会員各社の判断で順次進める自主的な取組みです。それでも、先行して導入を決めた正副理事長会社8社の名前を見ると、重みが分かります。住友不動産、東急不動産ホールディングス、東京建物、野村不動産、阪急阪神不動産、三井不動産、三菱地所、そして森ビル。
私がこの文書でいちばん面白いと思ったのは、対策そのものではなく、協会がそこに書いた迷いのほうです。
憲法に「財産権の保障」が定められていますが、そもそも自由経済において、私的財産の処分に関する権利に制限をかけるというのは、慎重に考えなくてはいけない問題です
まったくその通りだと思います。同時に、業界がこの文を書かなければならないところまで来ている、ということでもある。協会は同じ文書で、価格上昇の主因は原価の高騰と実需の需給バランスであって「投機的な取引の影響はごく限定的と捉えております」とも述べています。影響は限定的だと考えている。それでも対策を出した。外からの圧が、認識より先に動いたということです。
「価格が下がった」の中身を分ける
この時期、マンションの価格が下がり始めたという話をよく聞きます。ここは分けて見ないと、判断を間違えます。
新築は上がり続けています。不動産経済研究所の調査では、首都圏の新築分譲マンションの2026年6月の戸当り平均価格は10,137万円、㎡単価153.0万円。前年同月比で平均価格が10.6%、㎡単価が12.2%のアップで、㎡単価は14か月連続の上昇です。
反落したのは中古のほうです。東日本レインズの月例速報で、首都圏の中古マンションの成約㎡単価はこうなっています。
- 2026年5月 80.78万円/㎡ 前年同月比 マイナス3.9%(2020年4月以来、73か月ぶりの下落)
- 2026年6月 82.64万円/㎡ 前年同月比 マイナス0.8%(レインズ自身の言い方は「ほぼ横ばいながら2か月連続で下落」)
- 2026年7月 84.17万円/㎡ 前年同月比 マイナス1.5%(3か月連続の下落)
下落と呼ぶには、幅が小さい。3.9%の月があっただけで、あとは1%前後です。「暴落」の話をしたい人には物足りない数字でしょう。
私が気になったのは単価のほうではなく、その隣の列です。成約件数が7月に前年同月比マイナス8.6%で4か月連続の減少、在庫件数が同プラス5.5%で5か月連続の増加。そして新規登録の㎡単価は117.86万円で前年同月比プラス20.4%、2024年5月から27か月連続で上がり続けています。
売り出す値段は上がり続け、決まる値段は少し下がり、売れる本数が減って在庫が積み上がっている。値段が壊れたというより、売る人と買う人の言い値が離れている、と私は読みます。
新築の値付けは原価と供給戸数で決まり、中古の値付けは「いま売りたい人と、いま買える人が何人いるか」で決まります。上と下で向きが違うとき、動いているのはたいてい下のほうの事情です。
ここは私の考えとして書きます。中古の反落を「規制のせいで損をした」と読むと、たぶん次も同じ目に遭います。順番が逆です。投機的な買い方が目立ったから区の要請が出て、要請が出たから業界が自主ルールを作った。そして効いたのは、売り出す値段ではなく買う側の手数のほうだと私は見ています。成約が減って在庫が積み上がるのは、そういう形の効き方でしょう。規制が価格を下げたのではなく、価格の作られ方に無理があったから規制が来た。私にはそう見えます。
建築家が名前を挙げたこと
もう少し上の階層で、同じことを言っている人がいます。
山本理顕。2024年のプリツカー賞受賞者です。2026年1月、日本外国特派員協会の講演で「今の東京は、『新自由主義』信奉者の植民地のようだ」と訴え、東京の大規模再開発は「地域のコミュニティーを壊している」状態だと批判しました。そのとき、その一端を担っているとして著名な建築家を名指ししたことで、話題になりました。
名指しされた隈研吾が、山本の事務所を訪ねて対談しています。『文藝春秋』2026年6月号に載ったその対談で、山本本人が、あれは誰への批判だったのかを言い直しています。
あの場では建築家である隈さんや安藤忠雄さんの名前を挙げたけど、本当に批判すべき根本的な存在はディベロッパー。現代日本の都市開発において、最大の問題が森ビルに代表される開発する側にあるのは確かです
森ビルという社名が、ここで二度目に出てきます。一度目は、投機的短期転売の対策を先行導入した8社の中でした。同じ会社が、批判の名指し先と、自主規制の先頭の両方にいる。私はこれを皮肉として書いているのではありません。いま日本の都市を作っている側が、その両方を引き受ける位置にいる、という事実として書いています。
対談で隈研吾はこう言っています。「いよいよ都市は投機だけのための場所になろうとしている」。建築単価はコロナと戦争で世界的に上がっているが、それでも概ね1.5倍ほどで、「日本は下手したら3倍です」とも。山本のほうは、住宅が極端なまでに「浪費型金融商品」になってしまったと述べ、こう続けます。1996年の第2回国連人間居住会議の「イスタンブール宣言」には住宅は「住む権利」だと明記され、日本政府も調印している。そこが破壊されている、と。
ここでひとつ、はっきりさせておきたいことがあります。山本は開発を止めろとは言っていません。
別に私は都市開発で経済活動を行うなとは言っていません(中略)ただ、そこで生まれた利潤を都市に住むコミュニティーの人々に還元する必要がある
プリツカー賞の建築家が言っているのは、儲けるなではなく、還元しろ、です。これは大家業にそのまま翻訳できます。
容積率いっぱいに、という設計
翻訳するとこうなります。
敷地に対して容積率いっぱいまで建て、専有面積を削って戸数を増やし、収納を減らして居室数を稼ぐ。総戸数が増えれば表面利回りは上がります。事業計画書の上では、これが正解です。誰も違法なことをしていない。
その設計が街に対して何をしているかは、計画書の欄外にあります。ごみ集積所の容量、自転車置き場の台数、通学路に増える人の数、隣家の日照。どれも1棟なら誤差です。同じ判断が同じ通りで五棟続くと、誤差ではなくなる。
民泊はこれを速回しにしただけです。1戸を貸せば1世帯が住みます。同じ1戸を回せば、月に何十組が入れ替わる。ごみの出し方を知らない人が毎週替わる。区の表にある苦情の主な内容が「ごみ、騒音、たばこ」なのは、そういう理屈です。
だから新宿区の条例案は、民泊事業者だけの話ではないと私は考えています。あれは「地域の負担を外に置いたまま収益を最大化する設計」に対して、地域の側が値札を付け直した最初の例です。値札は、条例という形でしか付けられなかった。それまで無料だったからです。
富裕層の側が先に引き受ける
社会的責任という言葉は、大企業の報告書の中で使うと退屈になります。ただ、貸す側にいる個人にとっては、そんなに抽象的な話ではありません。
物件を持っている人は、その土地の使い方を決める権限を持っています。持っていない人には、その権限がない。権限の非対称があるところに責任が生まれる、というのは、そんなに無理のある考えではないと思います。そして規制は、責任を引き受けない人が十分に増えたあとで、全員に一律にかかります。真面目にやっている大家も、新宿区の条例案からは逃れられません。
ここが実利の話になるところです。
ごみ置き場を広めに取る。管理会社に近隣対応の窓口を持たせる。町内会の当番を断らない。1階に地元の店が入れる区画を残す。どれも初期の利回りを落とします。事業計画書では減点になる。
その代わり、苦情が積み上がりません。苦情が積み上がらなければ、規制の対象になりません。規制の対象にならなければ、出口で「この地域は条例で使い道が狭い」と言われずに済みます。新宿区でこれから起きるのは、まさにそれです。使い道が狭くなった物件を、誰がいくらで買うのか。
地域に根ざした物件づくりは、道徳の話ではなくて、いちばん長い時間軸の出口戦略です。少なくとも私は、その物差しで物件を見ています。
これから確かめられること
新宿区の意見公募は10月です。条例改正案が出るのは2027年2月の区議会定例会で、施行の目標は同年6月。ここまでは区が公表しています。
もし民泊で運用している物件を持っているなら、確かめる順番は三つです。その住戸の用途地域が住居専用地域か文教地区に当たるか。商業地域なら、年間120日で事業が成り立つか。そして、成り立たない場合に賃貸へ戻せる状態か(設備、家具、契約、融資の条件)。用途地域は自治体の都市計画情報で調べられます。
持っていない人にとっても、この件は他人事ではありません。千代田区の要請から不動産協会の自主ルールまでが四か月余り、観光庁の技術的助言から新宿区の方針表明までが二か月弱でした。住民の声が制度に変わる速度が、これまでとは違います。
数字の並びをもう一度置いておきます。70、60、299、561、924。この列が利回りの表に無いことが、いまのところ日本の不動産投資のいちばん大きな死角だと、私は思っています。
新宿区「届出状況及び苦情処理について」 ↗
観光庁「住宅宿泊事業法に規定する届出住宅に係るゼロ日規制について(技術的助言)」の発出について(2026年7月15日) ↗
不動産協会「分譲マンションの投機的短期転売問題にかかる取組みについて」(2025年11月25日・PDF) ↗
不動産経済研究所「首都圏 新築分譲マンション市場動向 2026年6月」(PDF) ↗
山本理顕×隈研吾 対談 前編(文春オンライン/『文藝春秋』2026年6月号) ↗
山本理顕×隈研吾 対談 後編「都市は投機だけのための場所に」(文春オンライン) ↗
東日本レインズ「月例速報 Market Watch サマリーレポート 2026年7月度」(PDF) ↗
毎日新聞「民泊の規制強化、新宿区長『業界が招いた』 苦情など1300件超」(2026年9月9日) ↗
「富裕層の植民地化する東京/六本木ヒルズ 森ビルの大罪…/建築家 山本理顕」(街録ch〜あなたの人生、教えて下さい〜) ↗
用途地域、条例の適用、融資や税の扱いは、必ず自治体の窓口と、利害のない専門家に確かめてください。この記事は判断の材料であって、判断そのものではありません。